【ガキ使】蝶野正洋のビンタに今年も期待!ビンタの裏には「命を救う」活動も?

 

こんにちは~

 

今年の大晦日もガキ使こと、「ガキの使いやあらへんで!!」が放送されますね!

 

今回も蝶野正洋さんのビンタは炸裂するんでるのでしょうか?笑

 

月亭方正さんには気の毒ですが、あのビンタは完全にガキ使名物!

 

あの顔とガタイで迫られたらもう、命を覚悟してしまいますよね(笑)

 

でも実際の蝶野正洋さんも、本当はすごく優しくて、気遣いの出来る人ともいわれていますね。

 

それに今年は特別な思いをもってビンタに挑むという話もあります。

 

いったいどんな想いなのか、詳しく見ていきましょう。

 

蝶野正洋さんのプロフィール

【生年月日】1963年9月17日

【身長/体重】186cm/108kg (現役時)

【血液型】O型

【出生地】アメリカ合衆国ワシントン州シアトル生まれ

【出身地】東京都(渋谷区・三鷹)

【高校】東京都立永山高等学校

【大学】神奈川大学中退

【所属】ARISTRIST

 

 

 

 

 

 

蝶野正洋さん、言わずと知れたプロレス界のヒーロー。

 

 

本当はヒールレスラーだったんですけど、蝶野正洋さんは応援したくなるカッコいいヒールなんです。

 

ヒールだけどヒーロー的なカッコよさもあると表現すべきでしょうか。

 

 

大げさではなく、ヒールレスラーの概念を超越して、その人気と実力でプロレス界を支えた人物でした。

 

 

 

今では“「ガキ使」で月亭方正さんにビンタを食らわせる人”の方がおなじみになってきたかもしれませんが(笑)

 

 

毎年毎年オチは分かりきっているはずなのですが、

 

ビンタまでの流れと怯えながらも覚悟を決めた表情が面白すぎて笑ってしまいます。

 

 

 

 

でもそんな蝶野正洋さん、本当はすごく優しい人だともいわれてますね。

 

元ヒールレスラーでしかもあの強面なのに、本当は優しいってすごいギャップだ…

 

 

でもさらに詳しく調べてみると、優しいどころじゃなく、本気で「命」を大事にする人なんだなということもわかってきました。

 

 

周りに頼られる存在だった青春時代

蝶野正洋さんはシアトル生まれ東京育ち。

 

 

勤勉なサラリーマンの父と、医者の家系で育ったお母さんとの間に生まれました。

 

 

6歳上のお兄さんと、4歳上のお姉さんがいる末っ子

 

なのですごく甘えん坊に育ったみたいです。

 

 

 

 

 

しかし小学校ではガキ大将中学からは不良。

 

高校では暴走族にも入っていて、バイクを乗り回したり、ケンカで4度の停学処分が下ったことも。

 

そこだけ聞くと、とても優しそうには思えないのですが…?

 

 

 

もう少し蝶野正洋さんの少年時代を紐解いてみましょう。

 

 

シアトルで生まれた蝶野正洋さんは、2歳の時に日本に戻り、神奈川県川崎市を経て東京の渋谷区で少年時代を過ごします

 

 

しかし小学6年生の時に三鷹市に引っ越してから、蝶野正洋さんの人生が大きく動きだします。

 

 

渋谷区に住んでいたころは周りもエリートばかりで、蝶野正洋さんも小学4年生のころから進学塾に通っていました。

 

当然「勉強ができる子=えらい子」が常識です。

 

 

しかし三鷹ではそんな常識は全くありませんでした。

 

 

当時の三鷹はまだまだ田舎の風景の残る土地で、勉強よりも喧嘩の強い子が中心になります。

 

 

蝶野正洋さん、なんと転校してからすぐにガキ大将的な存在になってしまいました(笑)

 

 

渋谷に住んでいた時もヤンチャな1面を持っていたのですが(小4の時にいじめっ子を校庭で引きずり回したとか)、

 

三鷹ではその素質が一気に開花しましたね。

 

 

クラスメートからは番長扱いされ、中学進学後もその関係は続きます。

 

 

髪にはパーマをあて剃り込みも入れ服はボンタンと完全に不良仕様に。

 

他校の生徒と喧嘩になったときは、真っ先に駆り出されていたといいます。

 

 

昭和のボンタンの画像(この写真は蝶野さん本人ではありません)

 

 

 

その一方で、小学生の時からサッカーに打ち込むサッカー少年でもあった蝶野正洋さん。

 

 

中学校ではまだサッカー部がなかったのですが、彼が主導となって新たにサッカー部を設立!

 

主将としてもチームを引っ張るという一面も見せていたそうです。

 

 

不良エピソードといいサッカー部のエピソードといい、当時からすごく面倒見のいい人だったんですね。

 

 

 

高校はサッカー強豪校への進学を見据えるも、なんと筆記試験で不合格に。

 

挫折を経験した蝶野正洋さんは、三鷹からも離れ東京都立永山高等学校へと進学します。

 

 

そこでもサッカーを頑張っていたそうなのですが、「三鷹の蝶野がいる」という噂は瞬く間に広がっていき、

 

高校にまで不良が集まってくるようになってしまいました。

 

 

 

 

 

さらにタイミングが悪い時に、蝶野正洋さんはこのタイミングでバイクの魅力を知ってしまいます。

 

暴走族に入って活動するようになり、いよいよ引き返せなくなってしまいました。

 

 

それでも家や学校では大人にたてついたりすることもなく

 

暴走族の集会に出かけるときも、まず両親に「おやすみ」のあいさつをしてから、部屋に隠してある特攻服に着替えて行ったといいます。

 

 

暴走族をやりながらも親には心配をかけたくなかったんでしょうね。

 

 

それに悪いことがしたかったというよりは、周りを放っておけなかっただけのような気もします。

 

きっと当時から人をひきつけるようなカリスマ性があったんだと思います。

 

 

ガキ使名物となった蝶野正洋のビンタ

さてさて話をガキ使に戻しまして。

 

 

蝶野正洋さんが初めてガキ使に登場したのは2007年。

 

絶対に笑ってはいけない病院24時」のことでした。

 

 

 

 

 

もちろんターゲットは月亭(当時は山崎)方正さん。

 

この当時、方正さんは腸炎を患っていたそうなのですが、スタッフからは「やっちゃってください」と言われ記念すべき(?)初ビンタがさく裂。

 

 

 

 

そしてこの年から2018年まで、蝶野正洋さんは毎年登場するようになります。

 

 

 

 

とはいえ実際にビンタをする側の蝶野正洋さんはどう思っているのか。

 

 

実は蝶野正洋さんご本人は、ビンタすることには抵抗があると語っています。

 

相手がレスラーならともかく、格闘技経験なしの芸人さんですからね。

 

 

初めて登場した時も方正さんが腸炎だったことを気にしつつも、スタッフの指示に従う形でビンタを披露しました。

 

 

いまでもガキ使以外のところでは絶対にビンタは披露しないようにしているそうです。

 

それにガキ使の時でも、できるだけダメージが少ないように調整しているとのこと。

 

 

ビンタを食らうと月亭方正さんの心が折れるそうなので、ビンタは番組後半に持ってくるようになったんだとか。

 

 

すごく気を使っていたんですね。

 

 

また月亭方正さん以外にビンタをすることも、基本的にありません。

 

2009年に1度だけココリコの田中直樹さんがビンタされたことがありましたが、

 

 

 

 

それ以外は毎回月亭方正さんです。

 

前フリで浜田雅功さんがビンタされそうになることはあっても、やっぱり最後にビンタされるのは月亭方正さん。

 

 

これは単に面白いだけじゃなくて、きっと蝶野正洋さんと月亭方正さんとの間に信頼関係があるからでしょう

 

 

月亭方正さんからは「蝶野正洋さんならキレイなビンタを決めてくれる」という信頼、

 

蝶野正洋さんからは「月亭方正さんならそれを面白くしてくれる」という信頼。

 

 

それがあってこそ、あのビンタ芸が成り立っているみたいです。

 

 

もし蝶野正洋さんじゃなくて他のレスラーがビンタ役だったら、ここまで名物になることはなかったかもしれません。

 

 

 

 

 

客寄せパンダでもいい!伝えたい想いとは

2019年のガキ使出演にあたり、「今年のビンタにはより一層力を入れる」と抱負を述べていました。

 

早くもビンタ宣言が出ましたね!笑

 

 

それにしても、どうして今年はより一層力を入れるのでしょうか。

 

 

自分が客寄せパンダになってもいい」と宣言するほど、テレビの前の皆さんに伝えたいことがあるからです。

 

 

蝶野正洋さんは、2011年より「AED救急救命」の大切さを伝える活動を行っています。

 

 

 

 

2010年に東京消防庁が開く「救急救命普通講習」を受けた際

 

 

2005年に脳幹出血で亡くなった橋本真也さんのこと、

 

また2009年にリング上の事故で亡くなった三沢光晴さんのこと

 

 

この2人のことが頭に思い浮かんできたそうです。

 

 

2人とも蝶野正洋さんと同世代で、40代の若さでこの世を去りました。

 

 

レスラーには危険がつきものですが、それでも防げた事故はあるんじゃないか、救えた命はあるんじゃないか。

 

新日本プロレスを退団する時も、それがずっと心残りだったのです。

 

 

そういった想いを抱えていた中、消防庁の方からあるオファーが来ます。

 

「AEDを広める活動に協力してくれないか」

 

 

当時もAEDは駅などに設置されていたのですが、まだ使い方をきちんと知らない人が多かったそう。

 

というか今でも十分に理解しているかといわれると…私もあまり自信がありません。

 

 

そのため消防庁としてもAEDの使い方をさらに広めていかなければという想いがあったそうで、、、

 

 

蝶野正洋さんも「自分でよければ」と快く引き受けました。

 

 

2014年には「ニューワールドアワーズスポーツ救命協会」も設立。

 

 

売名行為と言われてもいい、それで1人でも多くの人に救急救命のことを知ってもらえれば

 

そういう想いがうかがえますね。

 

 

 

また救急救命と同時に、「防災」についての大切さも日ごろから伝えています。

 

 

2011年の東日本大震災をはじめとして、日本は自然災害が非常に多い国です。

 

台風も毎年甚大な被害を出しています。

 

 

助かるはずだった命が助からなかった…

 

それは日常生活の中にだって起こり得る状況です。

 

 

 

友達や家族が倒れた時、周囲の人たちが応急処置でも助けてあげられるかもしれません。

 

でもそれには“防災に対する意識と人を助けるための知識”が必要なのです。

 

 

 

2019年9月、蝶野正洋さんは「防災減災119」という本を出版しました。

 

 

 

 

災害時に自分の命を守るために具体的にどう行動すべきか、それらを地震・火災・風水害・被災後の4章構成で紹介しています。

 

 

 

そしてこの本のことを知ってもらうためにも、まずは自分のことを1人でも多くの人に知ってもらわなければなりません。

 

だから今年のビンタには特に力を入れるそうです。

 

 

 

ビンタの裏にはこんな考えがあったんですね~!

 

 

誰よりも命の重みを知っているからこそ、ビンタ1つでもあれだけ気を使えるのかもしれません。

 

 

私もいい機会ですし、AEDや防災について学びなおそうと思います。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。