こんにちは~
10年前、その独特の喋り方が話題となりバラエティで大ブレイクした戦場カメラマンの渡部陽一さん。
最近ではテレビではめっきり見かけることが無くなったのですが、現在は何をされているのでしょうか?
今回は渡部陽一さんの現在について調べてみました。
渡部陽一のプロフィール
【生年月日】1972年9月1日
【出身地】静岡県富士市
【血液型】A型
【身長/体重】180cm/65kg
【大学】明治学院大学法学部法律学科卒業
いまから10年ほど前、バラエティでは引っ張りだこだった戦場カメラマンの渡部陽一さん。
すご~~~~くゆっくりとした話し方が特徴的でしたよね。
当時私の周りにも喋り方をマネした人も多かったです(笑)
渡部陽一さんが最初にテレビに出演したのは2009年の年末のこと。
TBSの番組「1億3000万人の法則」で、戦場カメラマンの仕事についてインタビューを受けたことがきっかけで注目を浴びるようになります。
それ以来バラエティ番組への出演も増え、「笑っていいとも!増刊号」のレギュラーにも抜擢!
いちやく大ブレイクとなりました。
しかし現在では、その姿をテレビで見かける機会はめっきりと減ってしまったように思います。
それもそのはず、現在の渡部陽一さんは、再び戦場カメラマンとして世界を飛び回る生活を送っているからなのです。
渡部陽一さんの公式HPでは、その様子を確認することができます。
どうやらテレビ出演は2013年を目途に一区切りをつけ、その後は再び戦場カメラマンとしての活動を多くとるようになりました。
戦場カメラマンになったきっかけ
もともと渡部陽一さんがバラエティに出始めた目的は2つ
・活動費を稼ぐこと
・戦場のことを1人でも多くの人に知ってもらうこと
大学1年生のころから海外を飛び回っていた渡部陽一さん。
明治学院大学に入学したころは弁護士や検察官を目指す普通の少年でした。
しかしある日、大学の授業で見たアフリカの狩猟民族の一つ「ピグミー族」に興味を持つようになります。
「いまだに狩猟生活を送っている民族がいるのか。この目で確かめたい。」
そう思った渡部陽一さんは、気の赴くままにピグミー族に会いにアフリカのコンゴ民主共和国に向かいました。
当時は戦場カメラマンどころか、カメラマンになろうという気すらもなく、本当にただの思い付きだったそう。
道のりは険しく、徒歩やカヌーにヒッチハイク、あらゆる手段を使ってジャングルの中を二ヵ月間も放浪します。
そしてある日、事件が起きます。
パーン!!!
突然鳴り響く銃声、「伏せろ!」と叫ぶトラックの運転手。
当時はルワンダ紛争のまっただ中でした。
銃を撃ったのもルワンダの少年兵
少年兵たちはそのままトラックに積まれた魚を奪い、渡部陽一さんもカメラを含むすべてを奪われてしまいます。
それでも命までは奪われず、なんとか帰国することはできたのですが…
この衝撃的な経験は、人生観を変えるには十分すぎる出来事でした。
このルワンダ紛争では100万人の人々が犠牲となり、危うく自分もその1人となるところでした。
しかし日本ではその話をしてもあまり興味を持ってもらえません。
この理不尽な戦いについて、どうにかして伝える方法はないものか…
実際の写真があれば、もっとインパクトを与えることができたのではないか…
そう思ったのが戦場カメラマンを目指す第一歩となったのです。
その後も在学中から何度も戦地に赴き、写真を撮り続けた渡部陽一さん。
大学を2回留年してしまいましたが、それでもきちんと卒業しました。
戦場カメラマンの厳しい現実
しかし戦場カメラマンという仕事は、命の危険以外にも様々なハードルがありました。
まずは金銭面。
戦場カメラマンの年収はかなり幅が広く、240万~500万程度だと言われています。
あれだけの危険にさらされている割には、それほど年収は高くないのですね・・・
戦場カメラマンというのはフリーランスのお仕事です。
誰かの依頼で戦場へ行くわけではなく、自分の意思でそこに向かいます。
もちろん活動費だって自己負担です。
撮影した写真も、出版社などに買い取ってもらって初めてお金になります。
渡部陽一さんも最初の頃は新聞社や雑誌社、ラジオ局をまわって提出していたそうです。
ですが持ち込んでも必ずしも採用というわけではなく、、、
こういった事情もあって、戦場カメラマンだけで食べていくのはかなり厳しいんだとか。
そのため、生活費と活動費を貯めるために過酷な日雇いの仕事をしていた時期もありました。
一番過酷な時は、1日20時間働いて8000円しか貯まらなかったことも。
それでも、戦場で起きている現実を世間に伝えること。
泣いている子どもたちの声をたくさんの方に届けること。
その覚悟が非常に強く、決して他の仕事をすることを考えなかったと語っています。
テレビ出演が好機に!
こういった日々が15年ほど続いていたのですが、そんな状況を一変したのがテレビ出演でした。
テレビに出演すれば1本あたりのギャラは数万円、多いときは1回で70万ものギャラになったみたいです。
しかもテレビの中で自分の撮影した写真を紹介してもらうことも。
活動資金稼ぎと、1人でも多くの人に戦場のことを知ってもらうという目的が、一気に達成できてしまったのです。
その分だけ世界を飛び回る時間は減ってしまいましたが、、、
2009年に結婚して2010年にお子さんも生まれたので、タイミングとしても良かったのではないでしょうか?
ちなみに子どもの名前は「世海(せかい)」君!いい名前ですね~
そして2013年ごろを目途にテレビ出演には区切りをつけ、戦場カメラマンとしての活動時間を増やしていきます。
2013年は2つだった取材数も、2014年には5つ、2015年には4つ、2016年にはなんと10。
2019年には1月から12月まで毎月欠かさず戦場に取材に行っています。
行き先はトルコの紛争地区、ウクライナ、ミャンマーなど。
しかも忙しい時間の合間を縫って、日本各地で講演活動も行っているみたいです。
【西南学院講座 in Tokyo 渡部 陽一氏講演会「戦場カメラマン渡部陽一が伝えたい、平和と命の大切さ~紛争地域の取材から~」を開催しました】西南学院東京オフィスが入るサピアタワーにおいて、西南学院講座 in Tokyoを開催しました。詳しくは、こちらをご覧ください。 pic.twitter.com/SVrbMLaMmH
— 西南学院大学(公式) (@seinan_gu) March 18, 2019
ゆっくりした喋り方ながら臨場感のあるお話は、思わずグッと引き込まれてしまいます。
それから、これは渡部陽一さんがテレビに出る前から続けていたことですが、本も執筆しています。
2008年には「世界は危険で面白い」という、実体験に基づいた世界の危険だけど面白い体験談をまとめた本を出版。
特に北朝鮮での喜び組との合コン体験談については目を引きましたね(笑)
2010年には「MOTHER TOUCH 戦場からのメッセージ」という写真集を、
2016年には「戦場カメラマンの仕事術」という本を出しました。
実をいうと、写真集に関してはAmazonなどでの評価はそれほど高くありません。
「情に訴えるような写真が少ないから」だそうです。
ただ、そこには理由があるそうで・・・
渡部陽一さんは戦場カメラマンとして写真を撮るとき、
“戦場の笑顔”それも“子どもたちの笑顔”をテーマにして撮っているそうです。
戦場でも子供たちは悲しんでいるだけじゃない。
子どもたちは不安な中でもやさしい笑顔を見せてくれる。
戦場でも学校に通い、勉強しながら笑っている。
戦場の中にある日常
その日常の中にある、家族の絆や人間の持つ愛の深さ、生きることの素晴らしさを知ってもらうのが狙いだそう。
そういった写真を多く選んでいるので、逆に「情に訴えるような写真」は少なかったんですね。
そんな渡部陽一さんの1番の夢は、
戦争や紛争が世界からなくなり「戦場カメラマンはもういらない」という状態になること、だそうです。
そうなったとき、渡部陽一さんは子供たちが一番笑顔になれる場所、学校での子供たちの表情を撮影する「学校カメラマン」へと転身するんだとか。
いつか渡部陽一さんの夢が叶う日が来ることを、私も心から待ち望んでいます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
四国への旅番組で、フグ漁師を訪ねて、1切で良いので試食させてほしいと頼んで、自宅へ伺って、出してくれた刺身を遠慮どころか、3切れ位を箸一かきでとって、遠慮もせずに食べていたけど、貴重なお魚をもう少し遠慮して食べさせてもらってください、